なぜ水中考古学を始めたのか?

なぜ私が船の考古学に興味を持ったかについて少し話してみたいと思う。 論理的、科学的、そして抽象的な内容が多いWeb-Siteとなっているのでたまにはもっと身近に感じられる、パーソナルな話をしてみたいと思う。これを読むことによって誰でもやる気があれば考古学者としての道を進んでいける、そして水中考古学だからといってとくに必要な能力、技術は必要ないことも知っていただきたい。 自分のことを書くのはあまり気が進まなかったが、この学問をもっと身近に感じてもらいたく書いてみることにした。 これによりこの道を歩もうとする人がいれば幸いである。
    

私は昔から“昔”のことが好きだった。 幼稚園のころは宇宙の起源、物事の始まりに興味があった。 幼稚園の卒業アルバムには将来の夢は“博士”と書いてあった (自分ではそう言った記憶はない。 他の子供は幼稚園の先生、仮面ライダー、パン屋さんなどがあった。 たぶんマセガキだったんだろう) また、小さなころからパズルが好きで暇さえあればパズルで遊んでいたと親はよく言う。 その後、恐竜などに興味を持ち、そして歴史、考古学と、中学のころにはほぼ自分の進む道は考古学者になることだろうと決めていたかに思う。 一時期ギタリストも目指したが才能がないことに気がついた。 考古学者としての才能があるかどうかは定かではないが、好きこそものの上手なれという、だからやっていけるのだろう。 高校を出て10日ほどでアメリカに渡り大学で授業を受け始めた。 

ミズーリ州にある大学でDr.Zarinsと出会った。 彼はサウジ・アラビア、オマーン、イエメンなどの青銅器時代―ローマ時代を中心に研究している教授である。 ザリンズはオマーンでは衛星写真などを使い昔の砂漠の交通路を探し当て、ウバールという都市(砂漠のアトランティスなどと呼ばれテレビで騒がれていた)を探し出した有名な学者である。 彼の元で考古学の基礎原理を学び、発掘などは日本、アメリカ、トルコ、オマーン、イエメンなど様々な地域、そしていろいろな種類の遺跡を掘った。 大学にいたころから考古学研究所で働き、大学を出てしばらく発掘・調査会社に勤めた。 最初はザリンズの影響もあり、メソポタミアとインダス、そしてその間の地域の交流について学ぼうと考えた。 南アラビアのメソポタミアとインダス文明を繋ぐ中継地として青銅器時代(3000-2000BCごろ)のマガン(今のオマーン)、ディルムン(今のバーレーン)という地名の場所が栄えたが、この地域の貿易にはやはり船が使われ、海上貿易が盛んであった。 私はこの海上貿易のメカニズムについて学ぼうと考えた。 それは地上の発掘で得られた情報を元に貿易ルートの解明、何を取引していたのか、そして誰がどのようにどの地域と関係を持っていたのかを調べることであった。

オマーンのRas-al-Jins遺跡で発掘に参加していたとき船の考古学(そして水中考古学)と出会った。 この遺跡は古代の船の防水加工用に使ったアスファルトの破片が発見された遺跡である。 これは船の抜け殻のようなもので、葦で作った船の外側の模様がアスファルトについていると言うものだった。 その模様から4000年前の船を復元することができるということだった。 その時気がついたのは、考古学者は貿易について語るけど、その貿易に使われた道具(船)についてはほとんど触れていないことに気がついた。 “船の考古学も面白そうだな”とその時思った。 水中考古学というものは名前だけは耳にしていた。 ただ漠然と水の中でタンクを背負って発掘をするものだと、そして特に沈没船を発掘するものだと考えていた。 沈没船などは遺物がごろごろと転がっていて、実測などもきちんとせずに引き上げるだけ、遺物採取目的の考古学的なものというイメージが強かった。 水中考古学に多少惹かれたが、やはり海に潜って発掘をすること、そして特に船が好きではなかったのでその道に進もうとあまり考えていなかった。 ただし、水中でも重要な遺物・遺跡があれば誰かに頼んで発掘してもらってもいいんじゃないのかと言う程度に過ぎなかった。私は水中考古学には興味がなく海上交通、海を挟んでの交流に興味があった。 

大学院へ行くと決めたときにはとりあえず水中考古学の名門であるテキサスA&Mにも(滑り止めとして?)願書を出してみようかと考えた。 水中考古学も海上貿易も似たようなものだろうと考えていた。 さて、本腰はやはりメソポタミア・インダスの名門大学であった。 それらの大学を訪問し教授によく聞かれたのが自分が研究をしたいのは何なのかである。 その時私は海上貿易だと答えた。 それはそれでよいのだが考古学とは基本的には“もの”を学ぶ学問であり、そこから社会・歴史を検討していく学問だから何か研究目的を探さなくてはだめだという趣旨のことを言われたと記憶している。 自分には興味を感じられる“もの”があまりなかった。 石器は興味があったがどうも苦手であったし、土器も良いのだがそれだけでは物足りない感じがした。 貝殻を使った装飾品などもやってみようと思ったがやりがいを感じられずにいた。 海上交易で専門になればいいじゃないかと自分では考えた。 そしてアラビアだけでなく東南アジアなど海は繋がっている。 もっと広い範囲で研究をしたくなってきていた。 船から得られる情報は貿易のメカニズムであり、地上の遺跡だけでは貿易の結果しか見ていないことに気がついた。 沈没船を発見できれば誰がどのようなものを運んでいたかがわかる。 地上の遺跡一つ一つは貿易の終着点であり、貿易全体を見ることは不可能である。 しかし、沈没船は貿易のメカニズムそのものを見ることが出来る。

実はいまだになぜテキサスA&Mに行くことに決めたのか自分でもはっきりしない。 A&Mの願書は10月ごろ出したと思う。 そのころすでに行く大学院もほぼ決まっていたし、その町に1年ほど住み大学には出入りを良くしていたし、教授などにはお世話になっていた。 2月にその大学院への入学が許され、入学手続きなどを終えた4月、A&Mからも入学許可が突然届いた。 経済的理由、ブッシュが大統領になったおかげで旅行がしにくくなったこと、そして、アジアの海上貿易も面白そうだと思ったなどさまざまな理由があったがとりあえずせっかくだからテキサスの大学でも見学に行って見ることにした。 テキサスを訪れたとき実に不思議な経験をした。 なぜかここの大学へ行って船の考古学を学んでみたいと思った。 なぜだかは疑問だが入学準備がすべて終わっていた住んでいた町の大学を蹴ってテキサスA&Mに行くことに決めた。 1週間後には引越しをした。 

その後、すぐにダイビングの資格を取った。 授業に参加し改めて船の考古学専門校であることに気がついた。 海上貿易、水中考古学もそれなりに関係はあるが、船、船、船について勉強する毎日であった。 実にこれが面白かった。 それまで船などにはほとんど興味がなく全くこの道を進むとは全く考えてもいなかった。 船の構造などを学んでいくうちに自分の進む道はこれだと気がついた。 やはり、一番の魅力は構造を解明する面白さであろう。 産業革命以前の世界での木造の道具では一番大きく、また最も複雑な作りをしている。 立体パズルを元の絵なしで復元していくことはやりがいのある仕事であり、時には困難な場合もあるが謎が解けた時の快感はただ事ではない。 海上貿易のメカニズムもまだ研究の対象として考えているが、船の構造を考え、解明していくほうが面白く、また実際に手に“もの“を取って見れることが最大の利点であろう。 実際に過去の遺物を手に取り考える、これが考古学だなと思った。 船の考古学だからといって海が好きである必要はない。 基本は考古学であり、物から過去の人間の生活を探る学問なのである。

さて、アラビア、インド洋、そしてアジアの船に興味を持ち出したが、とあることから日本でも水中考古学の研究が行われていることを知った。 James Delgadoと言うカナダの学者が九州の鷹島で元寇の船を発掘しているという噂を耳にした。 デルガド先生がテキサスを訪れたので会ってみると、彼はテレビの取材のために日本へ行ったので発掘はすべて日本人によって行われていることを知った。 早速発掘を担当している九州・沖縄水中考古学協会の林田さんに連絡を取り、発掘の見学、もしくは参加できないかと問い合わせてみた。 それから鷹島での発掘に参加することになった。 地上での発掘は長年してきたものの水中での発掘は始めてであったため、まずは日本の方々に迷惑は掛けまいと友達の紹介によりポルトガルのFaroでJean-Yves Blot先生が担当している沈没船の調査に参加させてもらった。 そこでそれなりの基本を学び、6年ぶりに日本へ帰国した (考古学以外の目的ではまったく帰国していなかった...)

ポルトガルのPepper-Wreck (Photo Dr.Castro)  

鷹島へ来て初めて日本の水中考古学の遅れに気がついた。 日本では考古学はわりとメジャーな学問だと思っていたから水中考古学も多少研究が進んでいるのだろうと思っていた。 しかし、現状は水中考古学は色物扱いされ、実際にこの学問で生計を立てるのは現在では無理であることを知った。 鷹島で発掘された船材はほとんど記録されることなく水槽の中に浸かっている状態であった。 誰も船材を実測し解釈できる研究者がいないのである。 それじゃやってみようじゃないかと思った。 鷹島で引き上げられた船材には特徴がある。 それは他の沈没船の発掘と異なり、複数の船から構成されていることである。 世界の船の考古学の歴史を見ても、このような遺跡の例はほとんどない。 また、ここでは中国、韓国、そして日本の船が見つかる可能性があり、そして沈んだ日時がほぼ正確にわかるのだ。 つまり、鷹島で発掘をすれば東アジアに13世紀に存在した様々な船の構造が解明できるということになる。 文献によると3000隻以上もの船が一夜にして沈んだという、いわば神風の発祥の地である。 ただし今までに見つかった船材はすべてばらばらでまとまった船は見つかっていない。 そしてアジアでは沈没船がきちんと調査された例はあまり多くないため貴重な資料であることは誰の目に見ても明らかである。 アジアでの船の考古学はこれからなのである。

鷹島は海外からの注目も高い遺跡である。 今までに鷹島の遺跡に関してのドキュメンタリー番組が二つ作られ、アーキオロジー・マガジン、ニュース・ウィークなどの有名な雑誌にも取り上げられた。 日本で海外から近年これほどに注目を受けた考古学遺跡はあるのだろうか? 今や世界の遺跡、鷹島海底遺跡なのであるが、不思議と日本では評価されていない。 そして注目度も外国に比べ低い。 日本国内で有名な吉野ヶ里遺跡、三内丸山遺跡など世界では知っている人はほとんどいない。 だけど、鷹島海底遺跡を聞いたことがあるという人は多い。 鷹島遺跡の考古学的価値は未知数である。 日本で船の考古学の実績がないためどう評価したらよいかわからないらしい。 また、日本国内ではあるが、中国、韓国の遺跡と言ってもよい特徴を持っている。 そのため、日本国内での注目度は低い。 しかし、これほど国際的な遺跡は例がない。 だから、この遺跡を日本は国をあげて支持をする必要があるのである。 地中海では2000隻以上もなんらかの形で沈没船の調査例があるのに、なぜ日本ではほとんど全くないのだろうか? いつも疑問に思う。 そして自分に出来ることがあればなんでもして日本の水中考古学・船の考古学を少しでも世界のレベルに追いつかせるように努力していきたい。

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