串本沖 トルコ軍艦探査プロジェクト

2007年1月に行われた和歌山県串本沖の1890年に沈没したトルコ軍艦の事前調査に参加したときの様子などをまとめました。

事件発生

1890年、トルコにとって日本、そして日本にとってもトルコは遠い国だった。明治政府とオスマン・トルコはお互いの国の親交を深めようとオスマン・パシャ一行600人ほどを日本へと送った。明治天皇との謁見なども計画され両国の親睦を確かめる機会となった。この任務には木造蒸気軍艦エルテゥールル号が起用された。老朽船ということもあり、日本へ向かう途中修理を繰り返しながらの航海であった。予定が遅れたものの任務を終えた一行は横浜に停泊していた。帰国の途に着く前に日本側が船の完全な修理を勧めたが、コレラの流行などもあってか9月の台風シーズンにもかかわらず出港した。9月16日から台風の影響と思われる暴風雨と波浪により船はコントロールを失いついには現在の和歌山県串本町大島の東の端にある樫野岬で座礁・沈没した。この事故で実に助かった者は60名ほどのみで500人以上が命を落とした。海運史に名をとどめる大海難事故となったのである。
船の沈没から無事助かった者は大島の島民に手厚い介護を受けた。また、島民が一丸となり死体の回収なども積極的に行った。小さな漁村であったにもかかわらず島民が見ず知らずの外国人を助けたことに心を奪われたトルコ人は日本人に関心を示すようになる。また、その後に日本がトルコの宿敵ロシアに対馬海戦でバルチック艦隊を打ち破るなどの事件があり、いつしかトルコは親日国となっていった。イラン・イラク戦争で日本人捕虜がイランの領事館に閉じ込められた際にトルコ政府が飛行機で救助に向かったことは有名である。現在でもトルコで行われた街頭インタビューなどでは行きたい国のナンバー1は日本だそうである。

2007年の調査にいたるまでの経緯

1970年代からエ号が沈没した付近はダイバーによる海域調査がたびたび行われたようで、幾つかの遺物が発見、引き上げられ遺物は大島が管理している。当時、遺物には保存処理が施されておらず現在では劣化が進んでいる。島にはトルコ資料館や記念碑が建てられ観光客などが訪れている。
さて学術的な海洋考古学の発祥の地、トルコですが、以前から研究者の間ではオスマン・トルコ時代の沈没船を調査したいと考えていたようで、いくつかプロジェクトとして立ち上げる候補があったそうです。しかし、歴史的価値などを吟味した結果日本で沈没したエ号の調査が進められることとなった。この研究にはトルコ海洋考古学研究所の所長のトゥファンさんが担当することになり、数年前に一度日本に下見にきている。そのときに串本町などと連絡を取り合い、今後の調査の可能性などを検討した。そして2006年からは2007年度の事前調査に向けてメンバー集めや調査費の獲得に動き出し始めた。トルコのファイナンシャルグループやトルコ航空などから調査協力、スポンサーとなり、2007年の調査が本格的に進められることになった。

2007年の調査

2007年度の調査は事前調査であった。海洋考古学調査、とくに水中で遺跡がある場合、実際に何があるか遺跡・遺物の分布を特定するのは困難な場合がある。日本の発掘のように開発の緊急調査のために調査範囲がはっきりと確定されている調査とは全くことなるのである。つまり、どんな遺物がどれほどあり、どのような状況かを確認し、日本の受け入れ態勢なども吟味し、来年以降の活動の計画を立てるための確認作業であった。そのため発掘なども行わない。また、遺物を引き上げた際、保存処理を適切に行わないと遺物が劣化するため、むやみに引き上げることはできない。遺物を引き上げる場合、それを最後まで保存処理を施し、展示管理するプランや人材がなければ完全に無責任な発掘としかいえないであろう。この保存処理をどこでどう行うかを決めることも今回の重要な目的であった。

さて、水中に何があるか分からないが、実際に現場にいかずとも何がありそうかを調べることは出来る。主に文献資料に頼る。エ号は鉄のフレームに木材の外販を張った船であると伝えられている。長さは80mほど。そして、帆を持った蒸気船であったので、エンジン・ボイラー・プロペラやシャフトなどがあったことが分かっている。沈没した際に船がサルベージされたそうだが、その記録を見る限り船体は引き上げられていなかった。大砲などの大きな遺物は明治時代に引き上げられたが、エンジンなどについては全く触れていないようである。つまり、これらの大きな鉄製の遺物はまだ海底に残っていると考えられた。

マルチビームサーヴェイ

船の大きな鉄の部品があるかどうか?それを調べるためにマルチビームソナー機器が使われることになった。海底ではレーザーなどが屈折するためイルカなどが使っているように“音”で地形を見ることが出来る。音波を使い海底面を3次元で復元するシステムがマルチビームシステムである。詳しくはこちらのサイトで。http://www.reson.com/sw1122.asp

船の横に装置を設置し、GPSやモーションセンサーなどと組み合わせて正確な位置を割り出す。装置から発生された音波が跳ね返ってくる角度や時間などから地形を作り出す。定められた海域を行ったり来たりして海域をカバーした。音波がどんどん広がるように出るため、海底面が複雑だとその裏側までは分からないので、別の角度から機器を入れて地形を確認することになる。しかし、船が入れない場所はもちろん計測できない。また、音の跳ね返りから地形を割り出すシステムなので、砂に埋もれているものは確認できない。遺物が地表から突き出ていれば確認することが出来る。しかし、調査範囲を一日でカバーし、次の日には早速3D地形図が完成した。今回の調査は東洋テクニカさんの協力を経て調査した。http://www.toyo.co.jp/index.html

マルチビーム調査の結果、海底地形が思ったいた以上に複雑であることが分かった。陸からは岩が張り出していたが、沖にでれば砂地と変わって平らになっていた。岩場では船体などの確認はマルチビームでは困難であるが、この平らな砂地にひとつ飛び出た地形(もしくは遺物)が確認された。この地点にダイバーを送り込んで確認を取ったが、単なる岩であることが判明。特に沖には遺物がないことが確認された。また、この3Dイメージをもとに遺跡の分布を直接マッピングしていくことも検討された。

磁気探査

磁気探査機は海底にある金属・磁気反応を読み取ることが出来る機械である。これにより海底面に埋もれている金属も発見することが出来る。マルチビームのように地形は出てこないが、磁気反応の強さにより等高線のように反応が強い場所、弱い場所がわかり、それにより金属性遺物の位置がつかめる仕組みである。今回の調査は応用地質さんの協力を得ることが出来た。http://www.oyo.co.jp

こちらの機械は船の後ろに取り付けて引っ張るシステムを使う。船に近いと船に反応を示すことと、海底面に近いほうが良いためにこのような取り付けを行う。この海域は地形が複雑であったため、あまり機材を深く入れることができなかった。しかし、1mほどの金属があれば発見できると考えられるので、ボイラーなどの一部があれば発見できるはずである。マルチビームの地図を参考に調査範囲が設定された。岸に近い位置は機材が海底面に当たるのをさけるために省かれ、またあまり深い地点も探査をする必要がないと判断された。水深約20-30mのあたりを帯状に探査することが決まった。調査の結果は思いもよらず反応が全くなかった。つまり、大きな金属の遺物はその海域には存在していないことが分かった。

多少期待はずれに感じるかも知れないが、実はそこにないということは岸に近い部分にあるか、サルベージされた、もしくはすでに微塵に壊れたことを意味している。それが分かったということが成果になる。エ号は鉄製のフレームだといわれているが、実際には木造のフレームではなかったかとも考えられていた。また、沈没前にエンジンが大爆発を起こしたということも伝えられており、金属反応がないことはこれらの可能性を考える上での参考となる。また、岸に近い部分を発掘し、ボイラーなどがこれから発見される可能性も否めないので、遺物が散乱していないことの証拠にもなる。

ダイビング調査

マルチビーム、磁気探査、言い伝え、30年前からたびたび行われてきた引き上げなどの情報を元に遺物が散乱しているであろう地点に直接潜って探査することになった。ダイビングチームはトルコ、アメリカ、日本人などによるチームである。8人ほどのダイバーで、一日約1時間の2回のダイブが行われた。だいたい10日ほど調査が行われた。ハンドタイプの金属探知機なども使われ遺物の位置が確認された。最初に大きなエリアが調査され、どんどん遺物が集まる場所を限定していく方法が取られた。3Dマップを使って遺物の分布図を直接書き込もうと言う計画は遺物の分布がマップのエリア外であったために出来ないことがわかった。

鉄製の遺物は長年海水に浸かると化学反応を起こし、コンクリーションを形成する。これは鉄分が溶け出し、周りの砂やカルシウムと結合し凝固し、遺物の周りに岩のような殻を作り出すことになる。普通の人が見ただけでは単なる岩にしか見えない。これは金属探知機や熟練した“目”で見つけることが出来る。さて、ダイビングを繰り返していくうちに日本のダイバーも遺物の見分け方がわかったきたようでどんどん遺物を確認できるようになっていった。これにより遺物の集中する地点が確認された。この海域は岩が多く、岩の下にも遺物が確認された。これは、船が沈没した後に岩が動いている。また砂があまりないので遺物の保存状態はそれほど良くはないだろう。有機物などは砂に埋もれることで酸素から隔離され、バクテリアなどの分解からも免れる。しかし、岩場では有機物はどんどん劣化が進む。ただし、岩の下から遺物が発見される可能性が高い。岩の下では逆に安定した状態で無酸素になる可能性もあり、一度岩を動かして発掘を行う必要がある。しかし、今回発見された遺物のほとんどは金属性のものばかりで保存処理はこのような状況に対応することが考えられる。

来年以降の調査

2008年からは串本町から借りることが出来た旧樫野小学校を本部に調査が進められることになる。最初に岩を動かし、その下から出てきた遺物の位置を確認し引き上げる作業になる。あまり大きな遺物はないため、保存処理もそれほど大掛かりなものは必要としない。私の考えでは電子還元法(ER)でほとんど対処できると考えられる。また、有機物もあるが、小さな遺物がほとんどであろうから、シリコン・オイルを使った保存処理方法が妥当であろう。実際の保存処理に関してはこれから検討されていくであろう。

トルコ軍艦記念碑の前で写真撮影
トルコ軍艦記念碑の前で写真撮影
こちらは以前に引き上げられた遺物などが展示してある資料館です
こちらは以前に引き上げられた遺物などが展示してある資料館です
マルチビームシステム
マルチビームシステム
船の上から調査中にマルチビームのデータを見ることができます
船の上から調査中にマルチビームのデータを見ることができます
こちらが使用した磁気探査装置です
こちらが使用した磁気探査装置です

調査海域はこんなところです。岩場で沈没しました

日本人ダイバーも使っての潜水調査です。彼らは良く働いてくれました。感謝です
日本人ダイバーも使っての潜水調査です。彼らは良く働いてくれました。感謝です
潜る瞬間!
潜る瞬間!

海洋考古学の父ことジョージ・バス先生がお弁当を食べてるところ

画家マチスのお孫さんのクロードさんです。75歳ですが、ばりばり元気に潜ります。海洋考古学の発展に惜しまず協力してくれています

地元の人に誘われてすき焼きパーティです
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記念碑のすぐ横にはトルコ人が経営するお土産店があります
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宿泊先のロイヤルホテルから見た日の出。橋杭岩がとても心にのこりました
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