沈没船学史

船の考古学が一般にも認識され学問として体系的に学ばれている欧米に比べ、アジアや日本では知名度も低くあまり込み入った解説はできないため、まず簡単にではあるが船の考古学の学史をここではざっと紹介してみよう。 細かな遺跡の名前や誰が発掘したなどではなく大まかな流れをここではつかんでほしい。 大きな流れとしては 1.サルベージから考古学へ 2.体系的学問としての発達――古代の船の構造の解明 3.ウル・ブルン、メリー・ローズ、その他の大事業の成功 4.これからの船の考古学

1.サルベージから考古学へ (1960-70)

     沈没船は昔から様々な形で発掘されてきた、それはサルベージから始まり、1940年代以降のスキューバの開発によってますます本格化されてた。それ以前にもアンチキセラ沈没船など地中海では発掘(盗掘?)がされてきていた。 しかし、実際に考古学者が海へ潜り発掘を担当することは無かった。考古学者がボートや地上から指示を出してダイバーの持ってくる遺物を調査したり、おおまかな遺物の分布図などが作られた。 主に遺物回収を目的としたものであった。 北欧、とくにデンマークなどではすでに水中ではなく地上から1890年代ですでに船そのものが発掘され、ニーダム、ゴクスタッド、オスベルグなどバイキング時代の船が研究されていた。 またエジプトでもクフ王のピラミッドの下から巨大な船が見つかり5000年前の船大工の技術に世界は驚いた。 船を考古学者が実際に潜り調査する必要があった。

     最初に考古学者が自ら水中に潜り発掘を行ったのはアメリカのジョージ・バスだと言われている。 1960年、ピーター・スロックモートンがトルコのスポンジ・ダイバーの情報に基づき沈没船を発見した。 彼はこの船を是非発掘してみたいと考えアメリカのペンシルバニア大学を訪れた。 彼はそこでジョージと出会い、沈没船を考古学的手段を用いて発掘してみようと意気投合した。 ジョージはスキューバの経験が無かったが、とりあえずライセンスを取り、トルコへ飛んだ。 トルコのケープ・ゲラドニヤではグリッドが設置され、正確な遺物の位置の記録など地上と同じように発掘がおこなわれた。 船はほとんど残ってはいなかったものの様々な遺物が発見され、紀元前1200年ごろのものと判明した。 特に重要な遺物は銅のインゴットが大量にみつかり、当時の貿易ルートとそのメカニズムの解明に一石を投じた。
    

     1960年代半ば、一人のダイバーによってキプロス島で古代の沈没船(300BC)が発見された。 この船はキレニアと言う町のそばで見つかったため、キレニア号と呼ばれマイケル・カツゼフによって発掘された。 300個近いアンフォラ(古代の商船で使われた大きな壺)が見つかり、また船の大部分も残っていた。 すべての遺物、船体は正確に記録され、引き上げられ、リチャード・ステフィー先生によって船体の解明が行われた。 その後、キレニア号は考古学資料に基づき完全に復元され、すべて昔の道具などを使って船のレプリカ (キレニアII)が作られた。 このキレニアIIで航海実験などがおこなわれた。 

キレニア号の船体(海底実測図を簡略化したもの)From R. Steffy 1994 Woodenshipbuilding and the Interpretation of Shipwrecks P.44

    60年代初めスウェーデンでは軍艦ヴァーサ号が発掘された。 この軍艦は17世紀にスウェーデン国王の威信を見せるために建造されたが、約30分でストックホルム湾内で沈没した (この軍艦建造のため国家は赤字となった)。 ヴァーサ号は湾内で発見され、引き上げられれた。 船体の保存状況は良く、ほとんど丸ごと残っていた。木材はそのまま乾燥させることは出来ないので、船内と船外にシャワーホースを取り付けポリエチレングレコール(PEG)を噴射し続けた。 保存処理が完全に終わるには実に20年も要するとはこの時だれが予想したであろうか? しかし、今ではヴァーサ号を囲んで博物館が完成し北欧では入場客が一番多い博物館となった。

2.体系的学問としての発達――古代の船の構造の解明 (1970-80)

     古代の船は現在の船と根本的に構造が違うことが解ってきた。 現在の船は骨組みから作るのが普通でその周りに外板を取り付ける。 骨組みが船の形を決め、また船大工はこの枠組みをまず考えてから船を作る。 キレニア号や他の古代の船はこの枠組みが外板を取り付けた後からはめ込まれたことが解った。 つまり、外板同士が取り付けられ、それを支えるために枠組みが付けられた。 船大工は枠組みではなく外板のカーブ、組み合わせを元に船の形を考え出す。 では、いったいいつ外板構造から骨組み構造の船へとかわったのであろうか?

     1970年代に入りローマ・ギリシャ時代の多数の船が発掘されているが、紀元前の船に比べフレームと外板の接合が重視されてきたことがわかった。 竜骨とフレームが接合されていなかったキレニア号であるが、紀元後3世紀の船には竜骨とフレームの接合が重視されてきた。 外板を接合するときにはほぞを掘り外板同士を接合していた。 7世紀のヤシ・アダ沈没船では外板の接合面も弱く、またフレームも弱かった。 ほぞは船体の下部にのみ存在し、上部はフレームに外板を取り付ける構造であった。 この船は外板が主体の構造からフレーム主体の構造への過渡期であると考えられる。 サン・ジェルヴァィ沈没船は竜骨とフレームが完全に接合されていたが、外板同士でのほぞの使用が確認されている。11世紀のセルチ・リマナ沈没船は完全にフレーム主体で作られた船であった。 (近年イスラエルで発掘されたタンテゥラ沈没船は7-8世紀の船ではほぼフレームが主体であった)

ほぞを利用した外板の接合方法 Randall 2003

     他の地域でも様々な船が発掘された。 大航海時代のポルトガル、スペインのナウ、カラベル、ガレオン船の構造などが少しずつ解明されていき、人々の船の上での生活や貿易品と多分化交流のメカニズムなどが研究された。 オーストラリアで発掘されたオランダ東インド会社のヴァタヴィア号(17世紀)など歴史上登場する有名な船が発掘された。 北欧でもスカルデレブで何隻かの船(11-12世紀)が重なり合って見つかり、その発掘は話題を呼んだ。 ケープ・ゲラドニア、キレニア、ヴァーサ号などに続き、これらの船の発掘により、沈没船の考古学は一躍注目を浴びるようになった。とくに1970年代後半に入ると、中国の泉州で宋時代の船、韓国の新安で明代の船などアジアでも沈没船が発掘された。1976年には世界で始めてテキサスA&M大学で海洋考古学を専門で学べる大学院の学科が設立された。 ただ珍しいからと注目を浴びるということも少なからずあったが次第に考古学者から認められてきた。 特にコインなどで沈没船の年代が正確にわかることがあるので、土器、おもにアンフォラなどの変遷をより正確に知ることが出来、地上の考古学とともにに大きく発展していった。

セルチ・リマナでの発掘 From INA http://ina.tamu.edu/

3.ウル・ブルン、メリー・ローズ、その他の大事業の成功 (1980-95)

     1980年代に入るとサーヴェイ機器の発達により世界各地で沈没船が発見され、また一般市民団体、企業、国家などからも支援を受け大規模な発掘が行われるようになった。 特にイギリスのメリーローズ号はイギリス王室も資金などの面でも協力し、実際にチャールズ皇太子は発掘現場にも頻繁に足を運び水中考古学を支援した。 メリー・ローズ号は1509年に完成したヘンリー8世の軍艦でイギリスが始めて本格的に海軍に力を注ぐようになったきっかけを作った船である。 そのため、この軍艦はイギリス海軍草創期のシンボル的存在であった。 そして発掘はイギリスに新しい考古学の発展に貢献した。 発掘現場の海底の透視度が悪く、流れも急なところだった。何も見えない水中で立体的構造物を正確に実測するために新たにDSM (ダイレクト・サーヴェイ法)などが開発され(これについては発掘作業のページで解説します)発掘技術も進歩した。 まだ、現在でもメリー・ローズ号の保存処理、調査、また小規模ではあるが発掘も行われている。

メリー・ローズの保存処理 From Mary Rose Trust http://www.maryrose.org/

     ウル・ブルンはトルコでジョージ・バスとジャマル・プラック(テキサスA&M大学)によって発掘された。 これは世界最古の沈没船で紀元前1300年ごろのものである。 この沈没船にはエジプトやシリアから様々な財宝や貴重品が積まれており一躍注目のまととなった。 遺物は西アジア、エジプト、アフリカ南部、ヨーロッパ各地の特産物などもあり、この時代の貿易関係の広さを再確認することとなった。 ケープ・ゲラドニアでも見たように銅のインゴットが10トンあり、また鈴のインゴットも1トンあった。 銅と鈴を使って青銅を作ったのであろう。 (青銅を作るには銅と鈴の比率は10:1である) 船は2-3%ほどしか残っていなかったものの、竜骨がまだ未発達であったこと、また、フレームが見つからなかった。 大きなほぞと木材を組み合わせることで船体の構造を維持した。

ウル・ブルンで発掘されたビーズ From INA http://ina.tamu.edu/

     この他にも世界各地で沈没船が発掘されフランス、イギリス、北欧諸国、ポルトガル、オーストラリアなどで体系的に国家が中心となり水中考古学を勧めていく動きができてきた。 テキサスA&M以外でも世界で幾つかの大学が水中考古学を教え始めた。 博物館なども充実し、一般にも海洋考古学、水中考古学が浸透し始めた。 ジョージ・バスが1960年にトルコのボドルムを訪れたとき、彼の乗っていた車がその町に始めて訪れた車であった。今ではボドルムの海洋博物館はトルコで人気No.1の博物館となり、町もその地方では最大の都市となった。 また、保存処理が終わったヴァ―サ号も博物館が建てられ、現在では北欧で入場者数一番の博物館となった。 韓国の新安沖で発見された明の商船や他の船の発掘により韓国でも水中考古学が盛んになりつつあり、また木浦市にある海洋博物館の展示内容も充実している。 このように歴史の解明だけでなく、船の考古学は地域の活性化や経済的効果、そして若い世代の海、歴史への関心を高めることにも貢献している。

4.これからの船の考古学  (1995から現在)

    最前線で活躍していたジョージ・バスやリチャード・ステフィー先生などが引退し、新しい世代の水中考古学者が先頭に立ち発掘を始めるようになってきた。 メリー・ローズ、ウル・ブルン、新安沈没船など大事業が成功に終わり、徐々に船の構造や遺物の整理からいろいろな情報が提供されてきている。 ただし、その影で今後の発掘に気がかりな点が一つ見え始めている。 それは、今まで水中考古学を支持してきた国家や一般市民団体などの感覚がこれらの成功のため麻痺している状態にあるといえる。テキサスA&Mが発掘したトルコのテクタシュ・ブルヌやパブチ・ブルヌは良い例である。 ウル・ブルン発掘の後、新しい沈没船が発掘されるとマスコミなどが騒ぎ立てた。 しかし、ウル・ブルンのように“宝物や金銀財宝”が見つかるわけではなく、小さな民間の商船であった。 考古学的にはその当時の貿易についての貴重な資料となった。 また、パブチ・ブルヌは現在保存処理中であるが古代ギリシャの船の構造に一石を投じることとなるのは間違いない。 ただし、マスコミや一般市民は“つまらない”発掘であったとの解釈をしてしまった。 このように実際の考古学の価値はあるものの過去の大規模な成功と比べられてしまうという状態になった。

     現実問題として、大規模な発掘が行われる可能性は低い、それよりも欧米でそのような沈没船が見つかる可能性は低い。 地中海ではすでに3000隻近い沈没船が何らかの形で調査されており、これらの資料整理をしながら、沈没船の分布調査、そして考古学的に必要ならば発掘をするという方針を取り出している。 考古学的にはこれが良い状態であり、 今後、歴史、文学、民俗学などの分野と近づき、船、海洋文化の歴史を解明していくというより大きな学問へと発達している。 欧米で学んだ学者らはインド洋など他の地域に研究対象を広げつつある。 アジアではトレジャー・ハンターなどによって幾つもの沈没船が失われているが、学術的研究を進めていく動きも最近は活発と成っている。 

     日本での水中考古学の時代はこれからである。 九州などでは多少水中での発掘調査が進められ、遺物の整理、研究も今後少しずつ一般に提供されていく。 日本人の学生はここ2-3年、世界の大学で水中考古学を学び始め勉学に励んでいる。これらの学生が海外で経験をつみ日本へ帰国し、その際に水中考古学の方法論、論理を持ち帰ってくるであろう。そして現在、日本で活躍している考古学者と協力し合い日本の水中考古学は新たなる一歩を踏み初めることになる。

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