ベトナム白藤江の戦い(1288年)考古学調査報告01

しばらくこのサイトのアップデートをお休みさせていただいておりましたが、また再開したいと思います。よろしくお願いします。さて、というのも、ベトナムに考古学調査で調査団長として出かけていたため、時間が取れない状態でした。これからその調査について少しここでは紹介いたします。つい最近、長崎県鷹島で発見された元寇の船が発見されたことが話題に上がりましたね。実は1288年、文永・弘安の役(元寇)から数年後、モンゴル皇帝フビライはベトナムに攻め込んでいます。なんと、ここでもモンゴル軍は壊滅的ダメージを受け侵略に失敗していたのです...この戦いは白藤江の戦いと呼ばれ、この時のベトナム軍の勝利は今でも語り継がれています。まずは歴史背景、調査に至ったいきさつ、調査の目的・方法、結果、調査の様子などを紹介しますが、何回かに分けて書いていきたいと考えています。

歴史背景:
第2次日本遠征に失敗したクビライですが、懲りずに3時遠征を計画していました。しかし、民衆や部下からの反対意見が多かったので遠征を取りやめたのです。しかし、その後、ベトナムへと矛先を向けたのです。当時は北部ベトナムは陳朝大越国が支配し、南部はチャンパー王国が支配ていました。モンゴル帝国はこれ以前からベトナムやチャンパーに政治・軍事的圧力を掛けていましたが、ベトナムの人民はなかなかモンゴルの思うようには動いてくれず、クビライは再度軍事介入を試みます。1288年に海軍と陸軍を送り込んだクビライですが、思っていた以上に手際よく首都タンロン(現在のハノイ)を攻略しました。しかし、ベトナム人民は焦土・ゲリラ作戦と補給部隊を打つ方法をもってモンゴル軍と対抗しました。なれない土地と食料供給を絶たれたモンゴル軍はあえなく撤退を余儀なくされます。

帰路につくモンゴルを迎え撃ったのは将軍陳興道でした。彼はモンゴル軍を白藤江の河口で待ち伏せしていたのでした。歴史文献では詳しい戦いの様子は分かりませんし、神話などで語り継がれている話なども信憑性に欠くものもありますが、モンゴルと陳軍の戦いは大体次のように起こったとされています。河を下り海に近づくモンゴル艦隊の前に少数のベトナムの船が現れました。その船を追うモンゴル軍ですが、なんと、気がつくと艦隊の前に無数の木の杭が現れていました。

アーティストが描いた戦いの様子。見にくいかもしれませんが、小さな木の杭がいっぱい描かれています。

実はベトナム軍はあらかじめ木の杭を要所要所に打ち込んでいたのでした。このデルタ河口であるため船で通過するのは難しい場所でした。しかも、干満の差が非常に大きい地域でもあり、それを利用して陳軍はモンゴル軍を「おとり」を使い水位が下がりだす時間にモンゴル艦隊を罠にはめたと言われています。また、別の資料では小型の船団を逃れる元軍が杭に阻められたとか、または、木の杭に船が「刺さった」などいろいろと伝えられています。すでに士気を失い身動きが取れなくなったモンゴル艦隊に隠れていた陳軍が一斉に攻撃を仕掛けたと伝えられており、また、上流から火船を放ったとも言われています。

この戦いでベトナムは勝利し、モンゴル軍は船を400隻失ったと言われています。この400隻が当時サルベージされたのか、それとも沈没したままなのか?疑問はいっぱいです。また、どのような船が沈んだのか?日本侵攻を考えて造船された船もベトナム船に組み込まれたとも言われています。さて、この白藤江の戦いで勝利した将軍陳興道はベトナムの英雄として現在でも親しみを持って崇拝されています。将軍陳興道を奉るお寺など各地にあり、また、多くの町に必ず陳興道にちなんだ道や地域の名前などを見ることが出来ます。左の写真は現地の陳興道のお祭りの準備をしているところ。紙で作った(モンゴルの?)馬などもあります。国の独立を死守した英雄は今でもベトナム人の心に生き続けています。

 

考古学調査の歴史

英雄陳興道信仰は特に白藤江河口で強く、クアンニン省の 南西部には様々な伝承が伝わり、また、直接に戦いに関連 した地名なども伝えられている。1950-60年代に白藤 江で大掛かりな護岸工事が実施され堤防が築かれました。堤防工事の最中になんと無数の木の杭が発見されたのでした。ベトナムの考古学者が調査をしたところ、この木の杭は13世紀のものであることが判明し、いくつかは発掘され各地の博物館などに送られましたが、木の杭のいくつかは現在でも現地保存がされています。その後、近隣地域も調査が進み、木の杭が8-10km²のエリア内の様々な場所から発見されています。ちなみに、この地域( クアンニン省クアンイェン)をグーグルマップなどでお確かめください。

この地域は堤防が築かれて以降、埋立地となり人々が住むようになったので、現在の地形をそのまま13世紀に当てはめることはできません。戦いのあった時代にはデルタ地帯であったと考えられ、幾つかの島が点在していた地形であると考えられています。その島が点在し、細い水路を通って海に出ようとしたモンゴル軍を陳軍が木の杭により動きを阻止したと考えられています。現在では地域の人々が歴史的価値のある遺物(遺構?)であると理解しているため、発見されればすぐに報告され保護されます。しかし、木の杭の正確な分布図などもなく、また、多くの杭はすでに失われているものと考えられています。また、木の杭以外のモンゴル軍の痕跡は数個の陶磁器片以外に何も発見されていません。写真は木の杭が田んぼからでているところです。ただし、1本1本すべて炭素年代できるわけではないので、これは別の時代の木の杭である可能性ももちろんあります。

木の杭が出土しているエリアは非常に大きく、また遺物も殆どでていません。しかし、歴史的意義を考えると見逃すごとができない遺跡となっています。この遺跡に2008年からベトナム・日本・アメリカ・オーストラリア・フランス・カナダ人などから構成される研究チームが発足して現在に至るわけです。しかも、水中考古学者が中心となり調査を進めており、海外の水中考古学者がベトナムで調査を行うのは初めてではないでしょうか?ベトナムもこの遺跡の調査を契機に水中考古学の発展を模索しています。この調査が始まった経緯とは?

次回お楽しみに!

 

 

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