白藤江

白藤江の戦い 考古学調査ブログ No.2

調査ブログの第2回目はどうしてこのプロジェクトがはじまったのか?についてです。「どうして水中考古学を始めようと思ったんですか?」などという質問は良く聞かれますが、いつも応答には困ってしまいます...答えは「たまたま、偶然」もしく、「自分でも良く分からない」からなのです。この白藤江プロジェクトも同じように「どうしてベトナムで調査をはじめたんですか?」と聞かれますが、これも「偶然」です。しかし、どのように始まったかはお答えできます。「Why」ではなく「How」ということですね...国際プロジェクトがどのように始まるかみなさん興味があるのではないでしょうか?というわけで、紹介させていただきます。今回は2009年に行われた第1次調査が始まるまでの道のり。先日行われたのは第3次調査です。

今から数年前のことになりますが、ある日突然ベトナムの考古学者のロンさんから写真付でEメールが私の元に寄せられました。メールの内容は「知り合いが6m以上もある大きなアンカー(椗)を漁師から買ったんだけど、このアンカーがモンゴル襲来のときのものであるか調べて欲しい」とのことでした。ロンさんはハノイ考古学研究所を近年退職したばかりであるが、モンゴル襲来に前々から興味があったとのこと。椗は2本あり、ハノイ近くの紅河から引き揚げられたらしい。また、ロンさんは鷹島海底遺跡で発見された大きな椗について調べており、大きさなどが似ていることから私のメールアドレスを調べコンタクトを取ってとのこと。写真を開くと確かに大きな椗が写っていた。椗は木製だがストックを取り付ける位置に丸い孔が開いており、そこに鉄の棒状のストックを装着したものと考えられる。縄などで椗の部位が固定されているが、保存状態が良さそうだ。形からするともっと新しい時代の椗だと思われた。

アンカーを保管しているディンさん

 

椗の部位を結合するロープ部分のアップ

爪の先に鉄がはめ込まれています。これは鷹島の椗と似ています。

実はお恥ずかしい話だが、自分もあまり元軍のベトナム侵攻については詳しくなかった。歴史の本でざっと読む程度であまり詳しく調べたこともない。考古学調査の可能性については興味があったが、はたしてどうやって研究を始めるのか?ベトナムには水中考古学を研究している人がいなさそうだし、サルベージも行われている。そのようなフィールドにどうやって入っていくのか?しかし、このメールを契機になんとなく調査できるきっかけとなるのではないかと思いとりあえず返信。「興味深い写真をありがとう!これだけでは良く分からないけどもっと詳しく調べることは可能ですか?」すると、翌日直ぐに返信があり、「是非ベトナムに椗を見に来てくれないか?」とのこと。こんなに簡単に物事が進むのか?となんとなく疑ったが当時私の研究所でプレジデントに就任していたデルガド博士と相談をした。

デルガドさんは以前からベトナムで調査を行いたいと思っていたそうだが、なかなかチャンスが無かった。そこで、たまたま転がり込んできたロンさんからの招待メール、これをも逃すわけには行かない!と直ぐに調査費用の調達が始まった。確か、ロンさんからのメールが来たのが11月ごろだったと思うが、翌年の5月にはハノイの空港に到着していた。

このときの椗の調査に私はオーストラリアの大学で学んでいた木村淳氏を誘った。木村君とは鷹島での調査やサン・フランシスコ号(1609年御宿で座礁したマニラガレオン)の調査でも度々一緒に活動をしている同士である。また、この時にフランスからクロード氏も同行した。クロード氏は画家ヘンリー・マチスの孫にあたり、マチス財団の代表取締役である。彼は若いころからダイビングに興味があり、あのクストーの右腕として潜っていたそうである。また、沈没船の学術調査の魅力に惹かれ、水中考古学の発展に貢献してきた人物である。

さて、この2本の椗について。結論を先に述べると、13世紀のモンゴルのものではなく、18-19世紀ごろの現地のものであると判明。炭素年代、樹種同定、縄の結び方、ストックの位置、形などから判断された。鷹島出土の椗に似ている部分もあるが、それは中国南部系統の椗全般に共通していることであり、元寇とのかかわりは全く無しであると断定。詳しくロンさんに話を聞くと、ある別の研究者がモンゴルの椗であると判断したが、ロンさんはその説に疑いをもち、私にコンタクトを取ったそうである。ちなみに、この椗についての詳細はInternational Journal of Nautical Archaeologyに論文を発表したので、興味のある人は是非読んでみてください。

 

アンカーその1

アンカーその2

 

さて、この椗がモンゴルのものでないにしても、ここで引き下がるわけにはいかない...とのことで、実際に白藤江の戦いの現場に行こう!とその場で計画。実際にクアンニン省に赴き、現地の学芸員(?)と連絡を取り現場を視察した。「百聞は一見にしかず」とはよく言ったもので、実際に現地に行くまではその遺跡の真の可能性を知ることは出来ない。基本的にはだだっ広い田んぼが広がる地域であるが、よく見るとあちらこちらに木の杭が突き出ているのだ。しかも、保存状況が良い。開発も殆どされていない。つまり、沈没船があるとすれば、田んぼの下に眠っており、水位が非常に高いため、遺物の保存状況は相当期待が持てる。これはなんとか大掛かりな調査ができないものかと考え始めた。沈没船の考古学であるが、水に潜る必要もそれほど無く、また、戦場の復元も出来るポテンシャルがあった。

このようなちょっと沼のような使われてない田んぼの中に...

700年前の戦いで使われた木の杭が出てる

ハノイの帰った我々はなんとかこの地で調査ができないかとベトナム人のパートナーを探し始めた。ロンさんに相談やベトナムの考古学に詳しい日本人研究者などにメールを送り事情を説明した。と、一人の研究者が候補に挙がった。ハノイ考古学研究所のリエン博士である。彼女は以前にも白藤江の発掘に参加していたそうである。早速、リエン博士とコンタクトを取り、アメリカへ戻る日の前日彼女に合うことが出来た。彼女は調査の可能性に協力的であり、一緒に調査をしてみたいと、とても良い返事をいただいた。彼女は、数年ユネスコで仕事をしており、考古学の仕事から離れていたが、ちょうど研究所への復帰をしたそうである。本人も多少驚いていたようだったが快くプロジェクトの参加協力を受け入れてくれた。ただし、ベトナムからは資金は出ないから自分達で調達してくれとのこと。まあ、それはもちろん最初から承知していたこと。それでは、これからいろいろとお世話になりますが、よろしくお願いいたします!と言い、アメリカへ帰国する準備をするためホテルに戻った。

ベトナム到着した時点では椗の調査に向けていろいろと考えていたが、帰りの飛行機ではすでに次のプロジェクトの企画を考えていた。いや、つい半年ちょっと前までベトナムで調査をするなど考えもしなかった...アメリカへ帰り、早速メンバー集め。広い範囲の調査になるので、多くのメンバーが必要だ。最初は木の杭の出土位置の確認、当時の地形の復元の可能性、伝承などを記録し史実と照らし合わせるなど作業はいろいろある。特に英雄陳興道は現在でも有名な歴史的国民的ヒーローとして色々な場所に祭られている。このプロジェクトに興味のありそうな人を募集してみた。他の大学院で水中考古学を学んでいる生徒を中心にと思い、イギリスやオーストラリアの大学などに話を持ちかけた。さて、調査資金であるが、これもなかなか難しい。いろいろな研究所や財団など幾つか候補があったが、充分な資金を出せるだけの「アジアの水中考古学」を行うためのの特別な団体は存在しない。そこで、いちかばちか、ナショナル・ジオグラフィック社に調査のための資金協力を要請した。ナショナル・ジオグラフィックといえば、アメリカの科学雑誌の大手である。黄色い表紙で有名な雑誌やテレビ番組などもある。ものは試しで、なんと無事に資金をゲットすることが出来たのだ!今思うといろいろと面倒なプロセスではあった。調査方法や意義はもちろんだが、調査の日程や資金の見積もりなど細かく記載しなければならなかった。ホテルの値段や食事の費用、レンタカーの値段...調査費用はドルで計算するのも最初は少し戸惑った...当時は1ドルで16,000ベトナム・ドンほど。おかげで「0―ゼロ」がたくさん並ぶ計算がやや面倒。ハノイで泊まったホテルの値段を元に一人一泊25ドルほどを予想したが、結局二人一部屋で10ドルと、ハノイと地方の物価の違いもあるし、学ぶことが多かった。

陳興道をたたえるお寺。今度の調査では伝承などの記録も重要となる

 

さて、メンバーもフランス、アメリカ、オーストラリア、日本など様々な国から10人ほど集まった。さらには、ナショナル・ジオグラフィック社からもカメラマンを同行させてくれとの要請。これはありがたいのかな?こうして、第一次調査の準備が整ったので、出陣!

第一次調査の様子・結果などは次回をお楽しみに!

ベトナム白藤江の戦い(1288年)考古学調査報告01

しばらくこのサイトのアップデートをお休みさせていただいておりましたが、また再開したいと思います。よろしくお願いします。さて、というのも、ベトナムに考古学調査で調査団長として出かけていたため、時間が取れない状態でした。これからその調査について少しここでは紹介いたします。つい最近、長崎県鷹島で発見された元寇の船が発見されたことが話題に上がりましたね。実は1288年、文永・弘安の役(元寇)から数年後、モンゴル皇帝フビライはベトナムに攻め込んでいます。なんと、ここでもモンゴル軍は壊滅的ダメージを受け侵略に失敗していたのです...この戦いは白藤江の戦いと呼ばれ、この時のベトナム軍の勝利は今でも語り継がれています。まずは歴史背景、調査に至ったいきさつ、調査の目的・方法、結果、調査の様子などを紹介しますが、何回かに分けて書いていきたいと考えています。

歴史背景:
第2次日本遠征に失敗したクビライですが、懲りずに3時遠征を計画していました。しかし、民衆や部下からの反対意見が多かったので遠征を取りやめたのです。しかし、その後、ベトナムへと矛先を向けたのです。当時は北部ベトナムは陳朝大越国が支配し、南部はチャンパー王国が支配ていました。モンゴル帝国はこれ以前からベトナムやチャンパーに政治・軍事的圧力を掛けていましたが、ベトナムの人民はなかなかモンゴルの思うようには動いてくれず、クビライは再度軍事介入を試みます。1288年に海軍と陸軍を送り込んだクビライですが、思っていた以上に手際よく首都タンロン(現在のハノイ)を攻略しました。しかし、ベトナム人民は焦土・ゲリラ作戦と補給部隊を打つ方法をもってモンゴル軍と対抗しました。なれない土地と食料供給を絶たれたモンゴル軍はあえなく撤退を余儀なくされます。

帰路につくモンゴルを迎え撃ったのは将軍陳興道でした。彼はモンゴル軍を白藤江の河口で待ち伏せしていたのでした。歴史文献では詳しい戦いの様子は分かりませんし、神話などで語り継がれている話なども信憑性に欠くものもありますが、モンゴルと陳軍の戦いは大体次のように起こったとされています。河を下り海に近づくモンゴル艦隊の前に少数のベトナムの船が現れました。その船を追うモンゴル軍ですが、なんと、気がつくと艦隊の前に無数の木の杭が現れていました。

アーティストが描いた戦いの様子。見にくいかもしれませんが、小さな木の杭がいっぱい描かれています。

実はベトナム軍はあらかじめ木の杭を要所要所に打ち込んでいたのでした。このデルタ河口であるため船で通過するのは難しい場所でした。しかも、干満の差が非常に大きい地域でもあり、それを利用して陳軍はモンゴル軍を「おとり」を使い水位が下がりだす時間にモンゴル艦隊を罠にはめたと言われています。また、別の資料では小型の船団を逃れる元軍が杭に阻められたとか、または、木の杭に船が「刺さった」などいろいろと伝えられています。すでに士気を失い身動きが取れなくなったモンゴル艦隊に隠れていた陳軍が一斉に攻撃を仕掛けたと伝えられており、また、上流から火船を放ったとも言われています。

この戦いでベトナムは勝利し、モンゴル軍は船を400隻失ったと言われています。この400隻が当時サルベージされたのか、それとも沈没したままなのか?疑問はいっぱいです。また、どのような船が沈んだのか?日本侵攻を考えて造船された船もベトナム船に組み込まれたとも言われています。さて、この白藤江の戦いで勝利した将軍陳興道はベトナムの英雄として現在でも親しみを持って崇拝されています。将軍陳興道を奉るお寺など各地にあり、また、多くの町に必ず陳興道にちなんだ道や地域の名前などを見ることが出来ます。左の写真は現地の陳興道のお祭りの準備をしているところ。紙で作った(モンゴルの?)馬などもあります。国の独立を死守した英雄は今でもベトナム人の心に生き続けています。

 

考古学調査の歴史

英雄陳興道信仰は特に白藤江河口で強く、クアンニン省の 南西部には様々な伝承が伝わり、また、直接に戦いに関連 した地名なども伝えられている。1950-60年代に白藤 江で大掛かりな護岸工事が実施され堤防が築かれました。堤防工事の最中になんと無数の木の杭が発見されたのでした。ベトナムの考古学者が調査をしたところ、この木の杭は13世紀のものであることが判明し、いくつかは発掘され各地の博物館などに送られましたが、木の杭のいくつかは現在でも現地保存がされています。その後、近隣地域も調査が進み、木の杭が8-10km²のエリア内の様々な場所から発見されています。ちなみに、この地域( クアンニン省クアンイェン)をグーグルマップなどでお確かめください。

この地域は堤防が築かれて以降、埋立地となり人々が住むようになったので、現在の地形をそのまま13世紀に当てはめることはできません。戦いのあった時代にはデルタ地帯であったと考えられ、幾つかの島が点在していた地形であると考えられています。その島が点在し、細い水路を通って海に出ようとしたモンゴル軍を陳軍が木の杭により動きを阻止したと考えられています。現在では地域の人々が歴史的価値のある遺物(遺構?)であると理解しているため、発見されればすぐに報告され保護されます。しかし、木の杭の正確な分布図などもなく、また、多くの杭はすでに失われているものと考えられています。また、木の杭以外のモンゴル軍の痕跡は数個の陶磁器片以外に何も発見されていません。写真は木の杭が田んぼからでているところです。ただし、1本1本すべて炭素年代できるわけではないので、これは別の時代の木の杭である可能性ももちろんあります。

木の杭が出土しているエリアは非常に大きく、また遺物も殆どでていません。しかし、歴史的意義を考えると見逃すごとができない遺跡となっています。この遺跡に2008年からベトナム・日本・アメリカ・オーストラリア・フランス・カナダ人などから構成される研究チームが発足して現在に至るわけです。しかも、水中考古学者が中心となり調査を進めており、海外の水中考古学者がベトナムで調査を行うのは初めてではないでしょうか?ベトナムもこの遺跡の調査を契機に水中考古学の発展を模索しています。この調査が始まった経緯とは?

次回お楽しみに!