水中考古学の薦め

人間の新しい環境に乗り出していく好奇心と挑戦心が物質的にあらわれたもの、それが“ふね”です。考古学は水中であれ地上であれ基本とすることは全く同じです。過去を愛する人、遺物を将来のために守っていく心を持った人の集まりが水中考古学を発展させていくことでしょう。トレジャー・ハンティングや水中考古学まがいのものが日本では認知されてきていますが、考古学の目的は遺跡・遺物の保護です。過去を大切にすること、それが第一原則です。今こそ日本人の海への関心を高めるべきです。地上の重力に魂を束縛された人間の心を解放し、水中遺跡の関心を高めていく。それが私の使命だと考えています。

2005年4月2日 Randall Sasaki

アジア太平洋地域水中文化遺産会議

さて、先月マニラでアジア太平洋地域水中文化遺産会議が行われました。私も鷹島海底遺跡で以前に研究した内容、ベトナム白藤江での調査など発表で参加いたしました。

アジア太平洋ということで、アフリカ東海岸から南米(太平洋側)の国々と非常に大きなエリアではありますが、多くの学者が参加されていました。聞いたところによるとこの会議には実はもっと多くの人が応募したそうですが、多くの人は拒否されたようです。トレジャーハンターや研究者として疑問のある人は参加できないという少し厳しい会議でした。日本人も東京海洋大学からの先生方を始め数名参加されていました。また、日本を研究する「海外」の研究者もいました。

さて、この会議、第1回ということですが、大盛況のようでした。多くの国の、特に若手の研究者が水中文化遺産の保護、そして水中遺跡の研究など様々なテーマで発表を行い、ディスカッションを行っていました。これがアジアの水中考古学の最前線だなと感じました。やはり、韓国はものすごい進んでいますね。新しく保存処理施設(海洋文化遺産センター)を作るようです。国が水中考古学を支援している様子が伺えます。また、インドの研究者も一丸となり研究を進めています。遺跡の現地保存方法の模索や、アンカーの研究などいろいろです。また、東アフリカからの研究者による鄭和の船のサーヴェイの発表の後に一番最初に発表者に真剣に話し込みに行ったのは中国からの先生でした...これは、典型と言うか、やっぱりね、と思いました。マニラ・ガレオン船の研究もどんどん進んでいるようですね。メキシコも国が水中考古学を推し進めて30年がたちます。

また、東南アジアも活発な調査が進められています。少し以前まではトレジャーハンターらが独占していた感じがありましたが、最近は若手の学者が水中考古学を盛り上げています。インドネシアは今年からトレジャーハンターに発掘許可を出すことを辞めたそうですね。フィリピンも遺物の売買は禁止。もちろん、カンボジアはユネスコ水中文化遺産保護法を可決していますから、きちんと水中文化遺産は国の法律で守られています。これから東南アジアの水中考古学はどんどん延びていくのではないでしょうか?沈没船も頻繁に発見され、調査が進んでいます。タイも昔からこの分野は先進国です。

この会議、全体を通してユネスコが上から押している感が少しありましたが、研究者同士のつながりが持てたことにより、ユネスコ主体でなく地域の研究者を中心とした新しい水中文化遺産の方向性を自ら作り出す契機となるかもしれません。また、やはり日本からの参加者が少ない印象でしたね。今回参加した国の中でトップクラスの経済力と考古学のすばらしい成果があるにも関わらず、この分野での存在感はいまいちでした。(予断ですが、リビアやイランなど独裁政治的な国のほうがユネスコ水中文化遺産保護に関しては承認が早かったですね...)水中考古学と言う分野は国が後押しをしないとなかなか発達しないものだと感じました。韓国と比べると、隣なのにどうしてここまで違うのかといつも思います。まあ、でも日本の水中考古学はこれからです!

この会議のプロシーディングスですが、こちらからご覧に慣れます。少し見にくい(使いにくい)サイトですが、すべての発表内容がPDFでダウンロードできるのは良いことですね。このような会議がこれからドンドン行われることを期待いたします。

 

 

 

 

 

 

ベトナム白藤江の戦い(1288年)考古学調査報告01

しばらくこのサイトのアップデートをお休みさせていただいておりましたが、また再開したいと思います。よろしくお願いします。さて、というのも、ベトナムに考古学調査で調査団長として出かけていたため、時間が取れない状態でした。これからその調査について少しここでは紹介いたします。つい最近、長崎県鷹島で発見された元寇の船が発見されたことが話題に上がりましたね。実は1288年、文永・弘安の役(元寇)から数年後、モンゴル皇帝フビライはベトナムに攻め込んでいます。なんと、ここでもモンゴル軍は壊滅的ダメージを受け侵略に失敗していたのです...この戦いは白藤江の戦いと呼ばれ、この時のベトナム軍の勝利は今でも語り継がれています。まずは歴史背景、調査に至ったいきさつ、調査の目的・方法、結果、調査の様子などを紹介しますが、何回かに分けて書いていきたいと考えています。

歴史背景:
第2次日本遠征に失敗したクビライですが、懲りずに3時遠征を計画していました。しかし、民衆や部下からの反対意見が多かったので遠征を取りやめたのです。しかし、その後、ベトナムへと矛先を向けたのです。当時は北部ベトナムは陳朝大越国が支配し、南部はチャンパー王国が支配ていました。モンゴル帝国はこれ以前からベトナムやチャンパーに政治・軍事的圧力を掛けていましたが、ベトナムの人民はなかなかモンゴルの思うようには動いてくれず、クビライは再度軍事介入を試みます。1288年に海軍と陸軍を送り込んだクビライですが、思っていた以上に手際よく首都タンロン(現在のハノイ)を攻略しました。しかし、ベトナム人民は焦土・ゲリラ作戦と補給部隊を打つ方法をもってモンゴル軍と対抗しました。なれない土地と食料供給を絶たれたモンゴル軍はあえなく撤退を余儀なくされます。

帰路につくモンゴルを迎え撃ったのは将軍陳興道でした。彼はモンゴル軍を白藤江の河口で待ち伏せしていたのでした。歴史文献では詳しい戦いの様子は分かりませんし、神話などで語り継がれている話なども信憑性に欠くものもありますが、モンゴルと陳軍の戦いは大体次のように起こったとされています。河を下り海に近づくモンゴル艦隊の前に少数のベトナムの船が現れました。その船を追うモンゴル軍ですが、なんと、気がつくと艦隊の前に無数の木の杭が現れていました。

アーティストが描いた戦いの様子。見にくいかもしれませんが、小さな木の杭がいっぱい描かれています。

実はベトナム軍はあらかじめ木の杭を要所要所に打ち込んでいたのでした。このデルタ河口であるため船で通過するのは難しい場所でした。しかも、干満の差が非常に大きい地域でもあり、それを利用して陳軍はモンゴル軍を「おとり」を使い水位が下がりだす時間にモンゴル艦隊を罠にはめたと言われています。また、別の資料では小型の船団を逃れる元軍が杭に阻められたとか、または、木の杭に船が「刺さった」などいろいろと伝えられています。すでに士気を失い身動きが取れなくなったモンゴル艦隊に隠れていた陳軍が一斉に攻撃を仕掛けたと伝えられており、また、上流から火船を放ったとも言われています。

この戦いでベトナムは勝利し、モンゴル軍は船を400隻失ったと言われています。この400隻が当時サルベージされたのか、それとも沈没したままなのか?疑問はいっぱいです。また、どのような船が沈んだのか?日本侵攻を考えて造船された船もベトナム船に組み込まれたとも言われています。さて、この白藤江の戦いで勝利した将軍陳興道はベトナムの英雄として現在でも親しみを持って崇拝されています。将軍陳興道を奉るお寺など各地にあり、また、多くの町に必ず陳興道にちなんだ道や地域の名前などを見ることが出来ます。左の写真は現地の陳興道のお祭りの準備をしているところ。紙で作った(モンゴルの?)馬などもあります。国の独立を死守した英雄は今でもベトナム人の心に生き続けています。

 

考古学調査の歴史

英雄陳興道信仰は特に白藤江河口で強く、クアンニン省の 南西部には様々な伝承が伝わり、また、直接に戦いに関連 した地名なども伝えられている。1950-60年代に白藤 江で大掛かりな護岸工事が実施され堤防が築かれました。堤防工事の最中になんと無数の木の杭が発見されたのでした。ベトナムの考古学者が調査をしたところ、この木の杭は13世紀のものであることが判明し、いくつかは発掘され各地の博物館などに送られましたが、木の杭のいくつかは現在でも現地保存がされています。その後、近隣地域も調査が進み、木の杭が8-10km²のエリア内の様々な場所から発見されています。ちなみに、この地域( クアンニン省クアンイェン)をグーグルマップなどでお確かめください。

この地域は堤防が築かれて以降、埋立地となり人々が住むようになったので、現在の地形をそのまま13世紀に当てはめることはできません。戦いのあった時代にはデルタ地帯であったと考えられ、幾つかの島が点在していた地形であると考えられています。その島が点在し、細い水路を通って海に出ようとしたモンゴル軍を陳軍が木の杭により動きを阻止したと考えられています。現在では地域の人々が歴史的価値のある遺物(遺構?)であると理解しているため、発見されればすぐに報告され保護されます。しかし、木の杭の正確な分布図などもなく、また、多くの杭はすでに失われているものと考えられています。また、木の杭以外のモンゴル軍の痕跡は数個の陶磁器片以外に何も発見されていません。写真は木の杭が田んぼからでているところです。ただし、1本1本すべて炭素年代できるわけではないので、これは別の時代の木の杭である可能性ももちろんあります。

木の杭が出土しているエリアは非常に大きく、また遺物も殆どでていません。しかし、歴史的意義を考えると見逃すごとができない遺跡となっています。この遺跡に2008年からベトナム・日本・アメリカ・オーストラリア・フランス・カナダ人などから構成される研究チームが発足して現在に至るわけです。しかも、水中考古学者が中心となり調査を進めており、海外の水中考古学者がベトナムで調査を行うのは初めてではないでしょうか?ベトナムもこの遺跡の調査を契機に水中考古学の発展を模索しています。この調査が始まった経緯とは?

次回お楽しみに!

 

 

鷹島から元寇の船が発見されました!

長崎県鷹島から構造がはっきりとわかる沈没船が発見されたようです。いろいろニュースが出ているようなので、ネットなどで探してみてください。鷹島から待ちに待った発見です!今までは船体の一部だけでしたから。その一部からもいろいろなことが研究できますが、やはり大きな繋がった構造の発見は違いますね。今後の研究に期待が持てそうです。

長年の探査の結果、今回の発見に至ったそうですね。以前からも陸に近い場所でいろいろ発見されていましたが、大きな構造として発見されたのは初めて。元寇の船、現在の情報からすると、中国の船でしょうね。見た感じでは中国や韓国などで発見されている沈没船に比べ保存状況がそこまで良くはなさそうですね。水深が深くなると波の影響を受けないので保存状態が良いです。この周辺ももっと探査すれば今回のものより保存情況が良い沈没船が発見されることでしょう。個人的な意見ではとりあえず発掘をせずに現地保存をして、もう少し残りの良い沈没船を探しても良いかもしれません。海外などで、最初に発見したからとい理由で発掘して、後からどんどんもっと良いものが発見されたケースなど多いですね。

今回の発見は中国の他の沈没船の資料などと並べて良い研究材料になるでしょうが、元寇の歴史に新しい研究をもたらすことでしょう。今後の研究の成果に期待します。ただし、日本で船の発掘を行った人は限られていますし、船を考古学的見地から分析した人も少ないです。これから発掘・分析などどのように行うのか?日本の水中考古学の発展に貢献できれば良いですね。特に、今回の発見を契機に鷹島だけでなく日本の広い範囲で水中考古学のサーヴェイが行われことを期待しております。

今回の発見をとおして、よりおおきな水中考古学の発展へと繋げていければ良いなと思います。

水中で発掘された最古の町を3Dで再現

現在のギリシャにある青銅器時代の町が水底から姿を現す!BBCが企画した番組だそうですが、とても興味を惹かれます。当時の町並みを発掘成果などから3Dで再現するそうです。港町として栄えた町だそうですが、商人の倉庫などもあり現在の港町も似たようなつくりをしていているそうです。人々と海がどのように接してきたかを学ぶにも良い考古学資料となることでしょう。もちろん、水没した町を3D復元した例もそれほどあるわけではないので、今後の調査・記録方法の発達にも何か期待がもてそうです。日本のテレビでも放送してほしいですね。

スペインが水中文化遺産保護強化

スペイン政府はいち早くユネスコ水中文化遺産保護条約を承認した国ですが、今回、様々な政府機関なども含めた総合的な水中文化遺産保護の方針を打ち出したようです。他の国もこのような取り組みを見習いたいものですね。詳しいニュースではないので分かりませんが、スペインの海域の外であっても言及しているようです。トレジャーハンターなどはもうスペインに関連した文化遺産にはなかなか手が出せなくなるのではないでしょうか?

金沢大学公開講座「海の考古学」

2011年10月15日(土)13:00~17:00 金沢大学公開講座「海の考古学」 開催されます!

以下、日本海息水中考古学会のホームページからの引用です。

場所: 金沢大学サテライト・プラザ(近江町市場の近く)
  佐々木 達夫 「水中考古学の魅力と発掘風景」
  大槻 巌 「東北地方の海に沈む歴史」
  石村 智 「南太平洋に沈む船」
  佐々木 花江 「海外の沈没船発掘」
  ※ お申し込みは、金沢大学地域連携推進センターHP(https://entry.ei.kanazawa-u.ac.jp/)まで。
昨年までは、能登半島での調査を中心にお話をしてきました。今回は、昨年末に山形県飛島沖で新たに発見され、今年になって調査がおこなわれて明らかになった沈船の話と、南太平洋での歴史を整理するための水中調査の事例をお話しします。そして、日本の水中考古学をどのように活用するのか、外国の水中考古学がどのような研究成果を上げているのかを御紹介いたします。

天正13(1586)年の地震で沈んだ遺跡か?滋賀県長浜で発見

滋賀県長浜沖(もちろん琵琶湖です)から海底遺跡が発見されたようです。天正13(1586)年にこの地方で地震があり、沈んだものとみられています。滋賀県立大学の学生グループ「琵琶湖水中考古学研究会」が素潜りで調査したそうです。

以前から遺跡の存在が示唆されていましたが、今回の調査で確認されたということでしょう。今後、いろいろと調査が進むと良いですね。

テレビ番組のご紹介。ディアナ号発見なるか?

9月10日夜7時より、TBS系「飛び出せ!科学くん」で157年前!駿河湾に沈んだ“幕末の黒船”大探索スペシャル!を放送予定だそうです。

以前、駿河湾で偶然発見した沈没船らしきものがディアナ号ではないかと話題になり、今回、大掛かりな探索を行ったとのこと。100年以上前の遺物ですから、ユネスコ水中文化遺産保護法案では保存・保護の対象となっております。幕末の船ですが、このディアナ号の他にも、いろは丸、ハーマン号、開陽丸など日本各地で調査されています。また、この時代の沈没船を調査する例は世界的にそれほど珍しくはないです。しかし、ディアナ号は幕末で日本の歴史において重要な意義を持った船ですからしっかり研究する価値は大きいでしょう。また、保存状態も良好である可能性が高いと思われます。

興味本位だけでなく歴史・考古遺産としてきちんと調査されるべきものであることは間違いありませんが…少しでも水中考古学・水中文化遺産の保護を考えさせる番組であれば良いですね。番組の内容がわからないですが、乞うご期待!

海賊「黒ひげ」の船とほぼ断定

何度か紹介している海賊「黒ひげ」の沈没船クイーン・アンズ・リベンジ号の調査について。もちろん、漫画「ワンピース」ではなく実在した黒ひげの船のことです。実は、沈没位置から黒ひげのものであるとほぼ確定していましたが、その決定的な証拠となる遺物は発見されていませんでした。しかし、先日、調査している研究者から黒ひげの船であると断定したと発表されたようです。

最近の発掘調査により断定できるものとして次の遺物が挙げられます。1705年と刻印された鐘。また、クイーン・アンズ・リベンジ号はもともとフランスの船であって、黒ひげが略奪したものです。そこで、発見されたのがフランス王家の紋章が刻まれた分銅。他にも樽の中に隠されていた金粒など。これは、船員が隠していたものでしょう。などなど。中にはまだ決定的でないと思う人もいるかもしれません。例えば、船の名前が描かれているものなどあれば決定的ですよね。まあ、このような遺物は殆ど発見されません。船の出港地、年代が刻まれたものなどから断定するのが普通です。その他の遺物や位置、持ち物や、船の作り方などいろいろと証拠を積み重ねて今回の結果が出たと言うことでしょう。

なにわの海の時空館「よみがえる軍艦 エルトゥールル号の記憶」

和歌山県串本で沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号関連の催しものがなにわ海の時空間で行われるそうです。写真家の赤木さんのよるギャラリー、トルコの音楽などいろいろなイベントが開催されています。

以下、海の時空間のウェブサイトからの引用です。

大阪市立海洋博物館 なにわの海の時空館では平成23年10月4日(火)から11月6日(日)まで、「よみがえる軍艦 エルトゥールル号の記憶~日本とトルコの絆~」を開催します。 1890(明治23)年9月16日、オスマン帝国の親善使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」は、台風により和歌山県串本町大島沖で座礁しました。この時、500名以上の乗組員が命を落としましたが、駆け付けた地元住民の献身的な救助活動によって、69名の生存者を得ることができました。悲劇の遭難事故ではありましたが、この出来事は、日本とトルコで広く語り継がれ、両国の絆の象徴ともされています。
2008年より、エルトゥールル号遭難海域の水中で、発掘調査が行われました。本展では、120年もの時を経て引き上げられた遺物を展示するとともに、発掘調査・脱塩処理・保存処理・復元・写真記録・遺物の研究など、水中考古学を取り巻く様々な活動を紹介します。また、発掘調査が行われていた串本沖やトルコの海中の様子を3D映像などで体感していただけます。